人生旅あり味あり

江ノ島−兒玉神社を訪ねて−

「余ハ第三軍ノ攻撃指導ニ関シ要スレバ満州軍総司令官ノ名ヲ以テ第三軍ニ命令スルコトヲ貴官ニ委ス」 満州軍総司令官大山巌


1904(明治37)年11月29日、満州軍総参謀長兒玉源太郎大将は遼陽北方の烟台にある満州軍総司令部から南の旅順へ向かった。懐中には大山巌(いわお)総司令官からもらった一札(委任状)を忍ばせていた。203高地攻略が進まぬ親友・乃木希典(まれすけ)大将率いる第三軍に兒玉は気を揉んでいた。そこで、旅順へ自ら赴くことを信頼する部下の満州軍作戦主任参謀松川敏胤(としたね)大佐に伝えると、松川は兒玉の旅順行に反対した。満州軍主力は現在、クロパトキン大将率いるロシア満州軍と戦っている。正面の敵を忘れ旅順へわざわざ総参謀長が行く必要はない。結局、松川は兒玉の旅順行にしぶしぶ同意するが、兒玉の第三軍への「横やり」は軍律問題になるおそれがあるため満州軍総司令官大山元帥の一札を持って行くように主張する。兒玉はこの松川の提案を拒んだ。
「自分と乃木の間に、そのようなものは必要ない」
それでも意を尽くす松川に兒玉は折れ、大山の一札を懐中することになった。「余ハ第三軍ノ攻撃指導ニ関シ…」。大山は兒玉にこの「お墨付き」を渡すついでに言った。
「寒気相加うるにより、これを着用、自愛を望む」
大山は着ていた革チョッキを脱いで兒玉に渡した。もし兒玉が203高地攻略に失敗した場合は、二度と二人は会うことはなかったにちがいない。
兒玉神社参道(写真)
兒玉神社参道
兒玉神社(写真)
兒玉神社

妻の実家は神奈川県の茅ヶ崎市にある。江ノ島は隣の藤沢市に位置するが、帰省するたび素通りしていた。湘南地方の観光のメッカである江ノ島に、兒玉(児玉)神社があることは前々から知っていた。今回は念願かなっての江ノ島訪問だ。
片瀬海岸から江ノ島大橋を渡り土産物店街を抜けると、正面に江ノ島神宮辺津宮が見える。ほとんどの観光客が直進するなか、左へ曲がり兒玉神社参道の階段を上ると兒玉神社へと至る。そして、鳥居をくぐり細い山道を進むと社殿へ出た。兒玉神社の始まりは、源太郎没後三回忌を期して兒玉の親友・杉山茂丸氏が向島の私邸に立てた社だった。その後、社は兒玉が度々訪れていた江ノ島の地に移り崇拝者による請願運動の結果、1918(大正7)年に公認神社へと昇格した。境内の社殿には台湾から取り寄せた桧が用いられ、台湾の妙手による一対の狛犬像がある。台湾は兒玉が永く総督を勤めた地だ。また「昭和拾年一月一日 爾霊山高地 石塊 棗萩松 横須賀鎮守府寄贈」と書かれた石碑もあった。太平洋戦後には一時、境内が荒れ果てたが関係者の努力によって復興したという。

狛犬像(写真)
狛犬像
石碑(写真)
石碑

日露戦争において満州での大作戦を演じる立場にあった参謀本部次長田村怡与造(いよぞう)少将が急死したのは、1903(明治36)年10月1日のことだった。田村参謀次長は日清戦争を勝利に導いた川上操六の跡を継ぎ、来るべきロシアとの満州決戦のプランを立てていた。川上操六は薩摩出身で陸軍の兵制をフランス式からドイツ式へ転換する作業に携わり、自らもドイツに渡り学んだ。そして日清戦争では日本を勝利へと導き、その後は参謀総長となり対ロシア決戦の青写真を描いていた。田村は山梨県出身だったため、明治陸軍の頭脳だった川上は彼を「今信玄」と呼んでいた。その用兵の手腕は折り紙付きだったといえる。1899(明治32)年、川上が世を去ると田村は参謀次長となり、対ロシア決戦の立案を受け継いだ。ところが、心労がたたり田村は心臓疾患により急死してしまう。日露開戦のたった4ヶ月前のことだった。そこで白羽の矢が立ったのが兒玉だった。

兒玉源太郎は1852(嘉永5)年、長州支藩だった徳山藩の貧しい藩士の子として生まれた。戊辰戦争、佐賀の乱、神風連の乱と戦火をくぐり、西南戦争では熊本鎮台参謀として西郷軍との孤城戦を指揮し勝利する。1885(明治18)年には陸軍大学校校長としてドイツ参謀本部からメッケル少佐を招聘し、鎮台から師団へ明治陸軍を近代陸軍へと刷新した。日清戦争では陸軍次官として裏方にまわり戦争をやり繰りする。その後は乃木が投げ出した台湾総督に就き、1900(明治33)年には陸軍大臣、1903(明治36)年には内務大臣兼文部大臣まで昇りつめた。その時、田村怡与造が破傷風による心臓昂進症で死去する。後任人事はどうするのか。陸軍は揺れた。陸軍の実力者、山縣有朋は兒玉を推した。参謀総長の大山巌もそれを望んだ。だが、中将(当時)の参謀次長はない。参謀次長は少将が務めることになっていた。もし兒玉を参謀総長にすると中将が大将の軍司令官に命令することになる。止むに止まれず桂太郎首相はこの降格人事を兒玉に頼んだ。
「承知した」
あっさりと答える兒玉の顔を桂は覗き込んだ。参謀次長は文官でいうところの次官であり、現内閣で閣僚を務める兒玉にとっては降格以外のなにものでもない。 けれども、この男は引き受けた。「降格」などという文言は関係なく、「日本」というアジアの貧しい島国のことしか、この男の頭にはなかった。事実、日露戦争後の1906(明治39)年7月23日、参謀総長になっていた兒玉は脳溢血でこの世を去る。日露戦争で燃え尽きた「戦死」だった。

1904(明治37)年12月1日、旅順の第三軍司令部に到着した兒玉は早速、乃木と協議する。横穴式陣地に入った二人は人払いをした。そして、兒玉は話を切り出した。
「乃木よ。わしはおぬしの友人として腹蔵なき意見をしにきた」
兒玉は懐中にある大山元帥の一札を握りしめた。
「そのため一時、軍司令官の指揮権を借用したい。おぬしの一筆を書いてくれぬか」
ここで乃木が拒否すれば、兒玉は大山元帥の一札を乃木に突きつけるつもりだった。
「…おぬしに任せた」
乃木は落涙した。兒玉は懐から手を離した。兒玉は早速、第三軍司令部に参謀を集め攻撃計画の修正を実行する。こうして、203高地は兒玉によって息の根を止められた。

日露戦争終結から26年後の1931(昭和6)年、関東軍の暴走により満州事変が勃発する。泥沼の15年戦争が始まった。一般国民の間では、乃木将軍が日本軍の勇敢な肉弾攻撃で旅順要塞を落としたことになっている。兒玉が乃木から指揮権を取り上げ、203高地を落としたことは知られていない。ところが、兒玉による乃木からの指揮権奪取については、将来の幕僚たるエリート軍人たちは当然熟知していた。これが、目的のためには手段を選ばずの風潮を生んだのかもしれない。大山の一札と兒玉の旅順行による勝利は、その後の破局の遠因となっていたのだろうか?その流れは、コーポレートガバナンスを失った平成の企業にも残念ながら受け継がれているといえよう。

訪問日:2002/4/13


<紹介ページ>
藤沢市役所ホームページ
観光情報のページで兒玉神社が紹介されています。