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泉岳寺−廟算に勝利した大石内蔵助良を訪ねて−

「あら楽し思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」 大石内蔵助良雄


泉岳寺(写真)
泉岳寺
大石内蔵助の銅像(写真)
大石内蔵助の銅像
四十七士墓所の門(写真)
四十七士墓所の門
浅野内匠頭墓所(写真)
浅野内匠頭墓所

1702(元禄15)年12月14日寅上刻(15日午前4時)、元播州赤穂藩家老・大石内蔵助良雄(おおいし・くらのすけ・よしたか)は赤穂浪士46名を率い本所(現在の墨田区両国)吉良邸に討ち入り、吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ)を討ち果たす。そして、翌1703(元禄16)年2月4日、御預けとなっていた熊本藩細川下屋敷で切腹した。忠誠院刃空淨劒居士。享年四十五歳。「あら楽し…」は泉岳寺に於いて詠んだ辞世。泉岳寺山門脇には大石内蔵助の銅像がある。

1701(元禄14)年3月14日、江戸城松の廊下にて赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)が吉良上野介義央へ刃傷におよぶ。浅野内匠頭は即日切腹、吉良上野介はおとがめなし。赤穂藩はお取り潰しが決まった。同年4月19日、赤穂城は開城明け渡し。大石はこの間、家中の意見を開城、そして藩主の弟・浅野大学長広をもってお家再興することにもっていく。6月、大石は京都山科へ居を移す。11月には江戸へ下向(第一回東下り)、泉岳寺にある浅野内匠頭墓所に参る。また、吉良邸討ち入りを逸る江戸在住の急進派浪士をなだめた。

1702(元禄15)年2月、山科会議。大学長広家督相続の結果を待ち、盟約者一同は大石の存念に従うことが決定。以後大石は、郭遊びにふけり仇討ちの意思なしと幕府に対し恭順の姿勢をとる一方、嫡男の主税(ちから)以外の妻子を但馬豊岡の舅のもとへ帰らせた。だが、浅野大学長広は広島の浅野本家にお預けとなり、赤穂浅野家再興の夢は消えうせる。
同年7月、京都円山会議。吉良邸討ち入り決定。江戸での情報収集に力をそそぐ。また、事前に各自から提出させていた神文盟約書を返却し、同志の最終意思確認を行った。10月、江戸へ下向(第二回東下り)。以後、吉良の動向を探る。12月14日深夜、吉良邸討ち入り。

四十七士墓所(写真)
四十七士墓所
墓所には名札がある(写真)
墓所には名札がある
大石内蔵助の墓前(写真)
大石内蔵助の墓前
大石内蔵助の墓所(写真)
大石内蔵助の墓所

孫子の兵法(計編)に「未だ戦わざるに廟算して勝つ者は算を得ること多ければなり」という言葉がある。廟算とは廟堂(朝廷)での会議のこと。つまり戦う前にあらゆる知恵を絞り机上での戦いで敵に勝利すれば、すなわち相手よりも秘策(勝算)が多く実戦でも勝つとの意味だ。大石はまさにこの心境に達していたのだろう。もちろん「廟算して勝つ」までには、人(盟約者の結束)、物(武器など)、金(軍資金調達)、情報(諜報活動・情報操作・自軍の情報管理)の面で凄まじいまでの努力が払われていたことは想像に難くない。
160年後の1860(安政7)年、廟算をせず単なる感情的な勢いだけで大老井伊直弼を襲った水戸浪士たちは、ただの暗殺者としての感が拭えない。そしてそれら急進派浪士を抑えることができなかった水戸藩は、維新での指導力をなくしてしまった。240年後の1941(昭和16)年、「沈んでこそ浮かぶ瀬もあれ」と述べた首相に率いられ、対米戦に突入した日本の末路はあまりにも悲しい。今回の訪問では、廟算して勝つことの難しさと大切さ、それを苦手とする日本という国を改めて実感することができた。
今も墓参者が絶えることのない四十七士墓所大石内蔵助の墓所前にはひと際大きな人垣ができていた。「浮世の月にかゝる雲」が未だに晴れることのない300年後の日本を、大石はどのような心境で見つめているのだろうか?

訪問日:2001/12/15





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